春の訪れ。ワタシ的には、外ヨガの季節到来であると同時に、薪能のシーズン開幕でもあります。ご存じのように能楽は通常能楽堂で行われますが、夕闇迫る頃、戸外で篝火に照らされながら演じられるのが、薪能。早速、5月に開催される川崎大師の薪能に申し込みを済ませました。狂言は「墨塗り」能は「賀茂」観世流ですね😊あっ、その前に「巻絹」「松風」「山姥」が仕舞で3演目。仕舞というのは面・装束をつけず直面(ひためん)で舞うこと。太鼓や笛など囃子方もつきません。地謡のみ。
仕舞を舞う吉沢亮もワタシのオタク妄想のひとつです(笑)
薪能といえば、鎌倉宮の薪能が始まりですが、やはり他の薪能とは一線を画したものです。あくまでも、神事として執り行われるから。昔は葉書による抽選でした。父方に少々コネがあって一度だけ観賞したことがありますが、その後はくじ運の悪さが祟ってそれっきり😅そういえば以前我が家は、鎌倉能舞台の賛助会員だった時期があるのですが、若き日の野村萬斎さんが狂言師として足を運んで下さっていました。民家のような狭い舞台で、いつも1㍍位の近さで拝見しました。俳優デビューはされていましたが、「陰陽師」の前でしたから、よもや現在のように多方面で華やかなご活躍をされるようになるとは、想像もつきませんでした(笑)あっ、野村萬斎さんといえば「のぼうの城」犬童一心監督、「猫は抱くもの」で吉沢さんつながり❗(笑)
さて本題😅
立原正秋の短編「薪能」…主人公は戦前の旧家、壬生家に生まれた美しい人妻昌子。父親は第二次世界大戦で戦死、鎌倉に屋敷と能楽堂を構える祖父のもとで、4才年下の従弟、俊太郎と共に幼少期から12年間同居します。昌子は英文学の研究者に嫁いだものの、夫は自分の浮気の原因を昌子になすりつけるようなスノッブ(俗物)元々戦後のアメリカナイズされた風潮に馴染めない昌子は、夫に裏切られたことで、益々「生きる意味」を見失っていきます。昌子は常に着物姿で居住まいを正し、趣味はお能の仕舞という女性。あの時代に女性で仕舞を嗜んでいるというだけで、いかに名家の生まれかわかります😅でもそんな楚々とした女性が、夫の浮気現場に踏み込んで、夫と相手の女性の服を捨てちゃうシーンがあって…衝撃的でしたね😅
一方、ワタシめが吉沢さんに脳内変換しているのが昌子の従弟俊太郎、25才。祖父の土地はあらかた人手に渡り、残された能楽堂と小さな家を守り、能の面打ちとサッカーだけに生きる意味を見出だしている青年。醜男に近い容貌だけれど(⬅️まっ、吉沢さんとは違うね😅)「純一無雑な目の持ち主」(⬅️こちらのほうが大事😅)と描写されています。彼は実は幼い頃別れた実母(俊太郎の父親がアメリカ兵に殺され、他家へ嫁いだ)を想いながらひたすら面を打つのですが、ある日、十数年ぶりに実母に会い、年令より若く美しい「生々しい女」だったことに衝撃を受け、それ以来、唯一の生き甲斐だった能面が打てなくなってしまいます。
時代に取り残され生きる意味を見出だせなくなった人妻と、やはり生きる手段を奪われた青年は、鎌倉薪能が始まる夕闇の中、祖父が遺した能楽堂の中で二人、自らの命を断ちます。薪能の篝火に象徴される「滅びの美学」が、立原正秋の流麗な文章で余すところなく描かれています。
純一無雑な眼、という描写はもちろん、
彼はなんにつけても明確なもの、単純なものが好きな青年であった。あの大戦直後の荒涼とした時代に、わずか九歳で能面作りに興味を持った青年の存在は、昌子の中でゆるがぬ位置を占めていた。
俊太郎はどうしても吉沢亮しか思い浮かばない。川崎大師で観世のお能を観賞しつつ、吉沢亮演じる壬生俊太郎に思いを馳せる…。これ以上幸せなオタクLifeはありますまい(笑)
そういえば、お能関連でもうひとつ吉沢さんにいつも脳内変換している小説があるのですが、それはまた次の機会に(笑)