ネットで近所の上映館を調べようとしたら、映画のジャンルが「西部劇」になっていてビックリした(笑)
映画の中で、ヒロインの姉の「ノマドって開拓民じゃない?アメリカの伝統なのよ」っていうセリフが語られ、その為か、ノマドをニューフロンティアとして捉える視点も、確かにアリだと思います。
…しかしヲタク的には、それよりもむしろ、アメリカ人の価値観や生き方の中に、新しい潮流…あえて言わせてもらえば、東洋的生き方の潮流が生まれてきた…という感じがしてならならないんですね。数年前からNetflixで配信されている「住宅ローンを組まずに家を建てる」や、「タイニーハウス」シリーズがアメリカで人気なのも、かつては「大きいことはいいことだ❗」だったアメリカが、確実に変わりつつあることを象徴している気がします。監督が、中国系アメリカ人のクロエ・ジャオだというのも、決して偶然ではないでしょう。
昔から、物質文化の鬼、消費のモンスターだったアメリカ。昼夜を問わずバリバリ働いて、でっかいマイホーム建てて、高価な家具や調度品で飾り立てる。それがあるべき幸せの形。より高価なモノをより多く「所有している」者が勝ち組。アメリカを10年後から追いかけているという日本人は、かつて「24時間働けますか?」が合言葉のエコノミックアニマルだったけど、アメリカのエリートリーマンたちはそれどころじゃない、能力一本主義であるがゆえに、その人生はもっと過酷を極めることは、例えば映画『クレイマー、クレイマー』を見れば一目瞭然。
仕事人間だった夫と、そんな典型的アメリカの中流家庭を築いていたファーン(フランシス・マクドーマンド)。しかし半生を捧げた企業も、それに伴って発展した街も突如として閉鎖され、愛する夫はガンで世を去った。職も住む所も家族も一挙に失ったファーンが余生の暮らしとして選んだのは、おんぼろのヴァンに最小限の荷物と思い出を詰め込んで、所々で短期の働き口(肉体労働)を見つけながら流浪していくノマド生活だった…。
ノマドの人たちは何らかの形で、ステロタイプな「幸せのかたち」からは外れた人たち。心に喪失感を抱えた人たち。しかし生き方を同じくする彼らは一年に一度荒野の真ん中で集いを開き、縁を深め、「いつかまた、会いましょう」を合言葉にまた、それぞれの旅に出掛けていく。だから彼らの挨拶に「さよなら」はない。
そこかしこにサボテンが屹立する砂漠地帯、どこまでも続く一本道、荒野の果てに沈む壮大な夕陽…。スクリーンの大画面に写し出される大自然は、まごうことなく「アメリカ」そのもの…なんだけど、その底に流れるのは、私たち日本人さえ忘れてしまった「東洋的なもの」だと感じるのはヲタクだけ?😅
思い起こせば、あのゴータマ・シッタールタは栄華の極みだった王宮生活を自ら放棄し、悟りを開いてブッダとなってからは、弟子たちとインド全土を放浪する旅に出た。日本では、芭蕉や種田山頭火、若山牧水も。欲や執着から解き放たれ小欲知足、大自然の中で風のまにまに自由に生きる。そして最後は、再び地に還っていく。こういう価値観は、私たち日本人のDNAに組み込まれているような気がしてならない😊
ヒロインのファーンを演じるマクドーマンドさん、シリアスで追い詰められた状況に立たされている筈なのに、そこはかとないおかしみというか、ユーモアと逞しさを滲ませた演技がまたいい味出てるんですよねぇ。内心彼女のノマド生活を憐れんでいるらしい友人から、「車(ヴァン)の名前は?」って聞かれて「ヴァンガード(先端、先鋭的なという意味)よ」ってサラッと答えるとこなんて、マジでカッコいいっす。
そろそろ終活を考えなくてはいけない年代に片足を突っ込んでるヲタク。『ノマドランド』は、そんなヲタクにとって人生の新しい指針を示してくれたような気がします。
…必要なことはみんな、映画が教えてくれる。
今までも、そしてこれからも😊