キノシネマみなとみらいにて、『チャイコフスキーの妻』鑑賞。
チャイコフスキーの才能に一目惚れ、彼に猛烈アタック、晴れて妻の地位をゲットするも、実は男色家だったチャイコフスキーに蛇蝎のごとく嫌われ、ついには精神を病んでしまって、後年は「世紀の悪妻」という有り難くない称号を与えられるに至ったアントニーナ・ミリューコヴァ(結婚後はアントニーナ・チャイコフスカヤ)の物語です。
映画はチャイコフスキーの死から始まります。別居して早や数十年経つというのに、「妻より」のカードを添え、葬儀用の花輪を準備するアントニーナ。付き添う弁護士❓️から「(喪服の)ヴェールが薄すぎる」とクレームをつけられますが、「いいの、目立ちたいの」と返す彼女に、観ているこちら側は(……おやおや、こんなに自己顕示欲の強い女性だったのか)と少々鼻白みますが、次には、なんと死んだ筈のチャイコフスキーがアントニーナが現れた途端ゾンビよろしくむっくり起き上がり、「なんでお前がここに居るんだ❗️」と叫ぶというホラーちっくな展開に。……でもそのお陰で私たちは、チャイコフスキーから理不尽にも三下り半を突きつけられ、強制的に別居させられて以降のストーリー展開は、アントニーナの頭の中の妄想と現実が奇妙に入れ混じったものだということを悟らされるのです。
チャイコフスキーの人物像は、全編曖昧模糊としています。彼らの結婚生活の破綻の原因となったとされる彼の性的嗜好でさえ、家族の口からそれとなく語られるだけ。……まあ、アントニーナの彼に対する恋愛感情そのものが、盲目的な偶像崇拝から始まった妄執ともいうべきものなのですから仕方ないことなのかもしれませんが。しかし彼女の妄執の底に蠢く「得体の知れない何か」を、フロイト的な※リビドーの発露として描いたのは、監督のキリル・セレブレニコフの、「世紀の悪妻」に対する新しい解釈のようにも思えます。リビドーを、女性とて例外ではなく、ましてや恥ずべきものではないとして描いたのは新しい視点かも。
※フロイトは人格形成をすべて広義の性欲(リビドー)に求め説明しました。この考えは後に汎性欲論と呼ばれるようになりますが、後年にはあらゆる人間の行動や活動を性衝動に求める事に対する非難的な言葉として使用されるようになります。ヲタクも個人的には、この理論はちょっと行き過ぎてると感じてますけど(笑)
しかし同時に、女性であることで自身の音楽家への道を絶たれ、その代替としてチャイコフスキーという天才の妻という地位に執着し、狂気にのめり込んでいくアントニーナと、当時は犯罪だった同性愛を押し隠し、自らの社会的体面を保つためにアントニーナを利用するチャイコフスキーの姿を通じて、世紀末のロシアへと逆行しようとしているかのような※現プーチン政権に対し、セレブレニコフ監督が叩きつける強烈なダメ出しと捉えるのはヲタクだけでしょうか❓️
※LGBTに関する宣伝禁止法の強化などが典型的。そもそも自身のマッチョさをひけらかすプーチン自身の「有害な男らしさ(Toxic Masculinity)」が、個人的にはめっちゃキモい(笑)
それにしても楽聖チャイコフスキーの情けない小者っぷりが……^^;『アマデウス』のスカトロモーツァルトを見た時のあの感じ、思い出した。もちろん、天才だって人間のはしくれだし、必ずしも人格者ならず……ってことは十分理解してるつもりだけど、折悪しくヲタクは10月に※バレエの「オールスターガラ」を控えてるんですよねぇ。おまけにラスト近く、アントニーナったら妄想の中でむくつけき男たちとバレエ踊ってたしね。ちょっと今、この作品を事前に見ちゃったことを後悔してる(-_-;)
※スヴェトラーナ・ザハロワ、ナタリヤ・オシポワ、ムンタギロフ、シクリャーロフ……と、ロシア出身のスターたち総出演。当然、チャイコフスキー作曲の演目もある……わよね❓️(^_^;)