東京芸術劇場プレイハウスにて、『世界の終わりとワンダーランド』マチネ(1/19)鑑賞。

本作は「意識が支配する世界」と「記憶を失った世界」が並行して進む、村上春樹流パラレルワールド譚
ここは全てがデータで支配されるディストピア「ハードボイルド・ワンダーランド」。計算士の「私」(藤原竜也)は、世界でも高名な科学者に依頼を受けて、データを暗号化するシャフリングという仕事に就いていますが、ある日、その科学者によって、自分の中に、意識下の自己が「無意識世界」に全て飲み込まれてしまうという時限装置が埋め込まれた------という衝撃の事実を知ります。それは実質的に肉体上の「死」を意味するものでした。「私」はそれを阻止するため、行方不明になった博士(彼だけが解除方法を知っている)を探しに、博士の孫娘(富田望生)と共に、「ハードボイルド・ワンダーランド」からの脱出を試みますが-------。
一方、パラレルワールドの「世界の終り」では「影」を切り離された「僕」(島村龍乃介)が、壁に囲まれた街で一角獣の夢を読む仕事をしています。「世界の終り」は、喜びも悲しみも記憶も全て喪われた、平穏極まりない「虚無」の世界。そこに安住している周囲の人々とは違って、「僕」一人は違和感を抱いていました。それは、僕だけが自分自身の「影」(宮尾俊太郎)を持っているから。しかしそんな彼の「影」も、今では元気をなくし、薄くなっていきます。記憶を繋ぎ止めるすべが「影」にあることを知った「僕」は、何とか影を取り戻そうとします。しかしその果てに待っていたものとは-----。
『海辺のカフカ』や『1Q84年』と同様、現実世界と、似て非なるパラレルワールドが並行して存在し、登場人物たちが2つの世界を往来したり、またその2つの世界が交錯・融合したりする、村上春樹的世界観が展開します。

ヲタクはね、こういう村上春樹的世界観は凄く理解できるの。小さい頃、一人っ子で超人見知りだったヲタクは、日がな終日独り遊びをして過ごしていたのですが、1番好きだったのが、泉屋のクッキーのフタの金色に光る裏側に天井を映して、(ここは不思議の国の入り口なんだ❗️)って思い込んで、異世界に入り込んだ後の出来事をいろいろ妄想すること。村上春樹もそうやって遊んでいた孤独な子どもだったのかもしれないわ(笑)
◆フィリップ・ドュクフレの演出と舞台装置
村上春樹の小説の舞台化は、『海辺のカフカ』を観たことがあって。(2019年赤坂ACTシアター「蜷川幸雄追悼公演」:寺島しのぶ、岡本健一)『海辺〜』も彼岸と此岸を行ったり来たりするパラレルワールドの話なんだけど、「あちら側の世界」にいる寺島しのぶを透明なアクリルの箱に閉じ込めちゃう…っていう演出とアイデアがひどく斬新で素晴らしかった。さて、フィリップ・ドュクフレはそのへんをどう処理するのか❓️ヲタクが観る前から特に注目していたのはそのへん。
ドュクフレはプロジェクションマッピングを駆使し、藤城清治風な影絵を多用し、また優れたダンサーたちにユニコーンや森の木々を演じさせて、無意識世界たる「世界の終わり」を見事に可視化してみせました。
彼は村上春樹作品の抽象性を「説明」ではなく「視覚と肉体表現」によって翻訳してみせたと言えるでしょう。しかもダンスや音楽等エンタメ的要素を加味したのもお見事❗️
◆そして、藤原竜也
やはりこの舞台で特筆すべきは藤原竜也の演技でしょう。どちらかと言えば激情型のエキセントリックな人物造型が得意な人なのかと思っていましたが、今回のように、十代に喪った恋の記憶を意識下に封じ込めて、喜怒哀楽を感じないように生きてきた青年の哀愁を「静」の演技で巧みに表現していましたね。
そう言えば彼、映画『僕だけがいない街』(2016年)で、抑制の効いた余白のある演技が印象的でしたものね。あの時を思い出しました。今回の舞台でも、彼の一貫した「静」の佇まいがあったからこそ、雪の降りしきる、胸締め付けられるような哀切極まりないラストが生きた❗️
まさに
汚れちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる
(中原中也/山羊の歌)
だったなぁ…😭
藤原竜也演じる「私」とは真逆の、現実世界を享受し、逞しく生き抜く女性たちを演じた森田望智と富田望生も素晴らしく、彼女たちの舞台人としての明るい未来を見たように思いました。
舞台化がかなり難しいと思われる村上春樹の『世界の終わりとワンダーランド』に果敢に挑戦し、見事に具現化した舞台でした❗️

※劇場内のBARでは、舞台にちなんだカクテル「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」を幕間に楽しむことができます。
今日ヲタクが選んだのは「ハードボイルド・ワンダーランド」(スパークリングワイン+カシス)。
★今日の小ネタ
・幕間の音楽
カクテル飲みにBARに行っちゃったから全部は聴いてないけど、客席から出ていく時にかかったのがステッペンウルフの『ワイルドで行こう』で、席に戻って来た時にかかってたのがボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』。『ワイルドで行こう』はともかく(笑)ボブ・ディランの歌詞は、「私」(藤原竜也)の荒涼たる心象風景を良く表しているように感じましたね。
どんな気分だい
どんな気持ちなんだい
独りぼっちになるっていうのは
家路もなく
知り合いすらいない
転がる石のようになるのはさ?
・ユングの「影」
作品中に登場する「影」(宮尾俊太郎)はまさに、ユングの言うところの「影(シャドウ)」と同義でしょう。意識が認めず無意識に抑圧した、自分自身の「生きてこなかった反面」のことです。
「私」は、まさに無意識世界に飲み込まれんとする時、必死に「生きそびれた過去」を取り戻そうとしますが、果たして彼が最後に下した決断は…❗️❓️