横浜・黄金町のミニシアター「ジャック&ベティ」にて、『SEBASTIAN セバスチャン』鑑賞。
これは“官能映画”ではない。
若き才能が、肉体を通して芸術へと飛翔する物語だ。
舞台は現代のロンドン。出版社の文芸部に席を置きながら書評や短編小説の書き手として頭角を現し、今は長編に取り組もうとしているマックス(ルーアリ・モリカ)。彼は自らの処女作にリアリティを持たせるため、“セバスチャン” という源氏名で、男娼として働き始めます。
たとえ一夜限りであっても肌を合わせることで相手と繋がり、その人間性を深く知ることの歓びにのめり込んでいくマックス。次第に「セバスチャン」がマックス自身の人格を侵食し始めて---------。
監督のミッコ・マケラはフィンランド出身。自ら同性愛者をカミングアウトしており、アメリカ最大のインディーズ映画サイト“インディワイア”により、注目のLGBTQ 映画監督ベスト25 に選ばれています。

★マケラ監督は第2のグザヴィエ・ドラン❓️
マックスと彼の客たちとの愛の営み(あえてヲタクは愛と呼ぼう)や、マックスがそこから感じ始める強烈な生の歓びが、マケラ監督自身が公言しているように、モーリス・ピアラやフランソワ・オゾンらのフランス映画に影響を受けたという、あえて台詞の説明を減らし、光や音、色彩、リズムで表現する映像詩(シネポエム)として展開していきます。
ヲタク個人的には、ピアラやオゾンよりむしろ、同時代の映像作家、グザヴィエ・ドランの詩的な映像表現や長回しを思い出してしまったけどね。
(但し、長回しを極度の緊張感や感情の爆発シーンで使用したドランに対し、マケラ監督の長回し表現は、静謐さに満ちている)
★思想的にはジャン・ジュネか
その映像表現は似通っているものの、テーマとしてはむしろ、ジャン・ジュネかもしれない。ゲイであることに逡巡し、悩み抜いたドランに反して、マケラ監督の分身とも言える本編の主人公マックスは、あまたの男たちと身体を重ねてもその清廉さは全く損なわれず、それを小説という"芸術"に昇華させていきます。
——肉体は消費されるものではなく、創造の起点となっていくのです。(彼が「セバスチャン」としての体験を文章に綴る時の、美しい恍惚の表情を見よ❗️)
それは、犯罪を重ねて投獄されたというジャン・ジュネが牢屋の中で書き上げたという『花のノートルダム』の主人公ディヴィーヌ(フランス語で"神々しい"を意味する)を彷彿とさせます。女装の男娼であるディヴィーヌは、世の人々に蔑まれながらも、決して自らを貶めることなく客たちに惜しみなく愛を与える慈悲深い存在、そしてある意味"性の解放者"として描かれているからです。マックスの中に"現代のディヴィーヌ"を見たのはヲタクだけでしょうか。
マケラ監督が、かつてはトム・オブ・フィンランドというゲイアートの大家を生み出し、LGBTQの権利保護に関しては世界でも1、2を争うフィンランド出身だからこそ描き得た作品世界なのかもしれません。
★ルーアリ・モリカに溺れる110分
そしてそして、主演を務めたルーアリ・モリカ❗️キャッチコピー「ルーアリ・モリカに溺れる110分」が、本作品の魅力を全て物語っています。

マックスの男娼時の源氏名がセバスチャンと聞いて、「聖セバスチャンの殉教」を連想した向きも多いのでは❓️キリストの弟子の中でも1、2を争うイケメンで(笑)多数の矢を射られても息を吹き返した聖セバスチャンは、傷ついた肉体に無垢な魂を宿していたと言われています(最後には撲殺されてしまった😭)しかし16世紀、彼を描いた絵画はあまりにも官能的な魅惑に満ち、女子たちの心を乱す⋯という理由で、教会から撤去されたというエピソードも。かの三島由紀夫も聖セバスチャンに魅入られた一人。
-------しかし現代の聖セバスチャン・マックスは、石持て追われ迫害されることはなく、自由自在に飛翔していきます。

ヲタクはルーアリ・モリカの透明感溢れる美しさに、『君の名前で僕を呼んで』のティモシー・シャラメと同じくらい⋯いや、それ以上の衝撃を受けました。
『SEBASTIAN セバスチャン』は、マックス=ルーアリ・モリカという新たな才能の誕生の瞬間を目撃する物語なのです。
★ヲタクの独り言
作品中、マックスが勤務する出版社の編集会議で、誰かが「男娼」という言葉を使ったら、「今はセックスワーカーと言うんだ」ってたしなめられる場面がありました。娼婦、男娼は差別語、侮蔑語に当たる⋯っていう意味でしょうね。
しかしヲタク自身は「バロック的美」-------
整っていない感情が、抑圧し切れず暴発した瞬間。
壊れかけた人間、狂気に囚われた人間が最も美しく見える、その一瞬-----------
の愛好家なので、これからも男娼と呼ぶでしょう。
男娼という言葉の持つ淫靡な響きに、強烈に惹かれるから。