——これは、母が“喪失”を通して、芸術に触れ、魂が救済された瞬間の物語。
上大岡のTOHOシネマズ上大岡にて、『ハムネット』(2025年 クロエ・ジャオ監督)初日鑑賞。
⋯そう、アイルランド出身の女優ジェシー・バックリーが、見事アカデミー主演女優賞を受賞した作品です。

★当代随一のカメレオン女優⋯ジェシー・バックリー
ヲタクが彼女に初めて注目したのは、激推しジャクロことジャック・ロウデンが、ロシア貴族ニコライ・ロストフを演じたBBCのドラマシリーズ『戦争と平和』(全6話)。ニコライが家の再興のため、政略結婚の相手として選んだ資産家の娘、マリヤ・ボルコンスカヤを演じていたのがジェシーなんですよね。彼女は、恋する相手に愛されない哀愁と、それでもなお地に足をつけて生きていこうとするマリヤの勁さを、抑制の効いた演技で表現し、しかもその底には、ちらちらと女の仄暗い情念をちらつかせて----------お見事❗️
それから10年、その後は彼女、シングルマザーの歌手(『ワイルドローズ』)、有能なキャリア秘書(『ジュディ 虹の彼方に』)、実在しているのかしていないのか、まるで幻想のようなリアリティの無い女性(『もう終わりにしよう。』)、戦前アメリカの良妻賢母(『クーリエ:最高機密の運び屋』) 、母親と女性、2つのペルソナに引き裂かれる女性(『ロスト・ドーター』)、夫からの激しい暴力に苛まれる妻(『ウーマントーキング 私たちの選択』)…と、あらゆる役柄を演じきり、海外の映画通の間では当代きってのカメレオン女優の異名をほしいままにしてきましたが、日本での知名度は今までイマイチだった気がします。
しかしこの度のアカデミー主演女優賞受賞をきっかけに、ジェシー・バックリーの演技の素晴らしさが日本の映画ファンの間にも少しでも広まればいいなぁ⋯と思います。ヲタクはちょうど1週間前に公開された『ザ・ブライド❗️』のジェシーの、今まで見たこともないようなぶっ飛び演技に文字通りぶっ飛んで(笑)「カメレオン女優だってことは充分認識はしていたけど、彼女まだこんな引き出しもっていたのか❗️」って目を丸くしました。
そしてついに来た、『ハムネット』❗️
★『ハムネット』のあらすじ
手袋職人の家に生まれながら家業に全く身が入らず、芝居の試作に没頭し、父親から「役立たず」と暴力を振るわれる若き日のウィリアム・シェイクスピア(ポール・メスカル)。彼が一目で恋に落ちた相手は、いつも森に入り浸っては薬草を摘み、鷹と話し、相手の体に触れると心が読めるという噂の、陰で「森の魔女」と渾名を付けられた変わり者のアグネス(ジェシー・バックリー)でした。

※劇作に悩むシェイクスピアの才能を誰よりも信じ、励ますアグネスですが⋯。
所謂社会のはみ出し者同士の、身を寄せ合うような結婚でしたが、長女スザンナ、そして双子の兄妹ジュディスとハムネットと次々に子宝に恵まれ、しばらくの間穏やかな日々が続きます。しかしウィリアムは劇作家兼俳優としてロンドンで名を成し、家族は離れ離れに。そしてある日夫妻にとって身を切るような悲劇が起き----------。
★アグネスという「ケルト的存在」

アグネスの実の母親は、「森からやって来た」謎の存在として描かれており、薬草の知識や鳥と話せる、呪術やアニミズムに傾倒している、そして「教会には行くけど、神は信じていない」発言など、アグネスには、既存のキリスト教的価値観には収まりきらない、異教的で土着的な気配が与えられており、ヲタクにはどこかロマ的、あるいはケルト的な血の記憶を帯びた存在のようにも見えました。
シェイクスピアは妻と仲が悪く、家庭生活は円満ではなかったというのが定説です。しかしシェイクスピアの作品には、人間を翻弄する大自然の脅威(『リア王』や『テンペスト』の嵐、『マクベス』の霧)、森に棲む摩訶不思議な生き物たち(『真夏の夜の夢』)、幽界を彷徨う亡霊(『ハムレット』)が度々登場するところを見ると、妻のアグネスはシェイクスピアの作品のミューズであったという原作者の設定が真実だった--------と思いたくもなります。
原作は、北アイルランドの作家マギー・オファーレル(Maggie O'Farrell)による2020年の歴史小説『ハムネット Hamnet』です。確かに、シェイクスピアの作品には、異界や古層との交流、生命循環への祈り、森羅万象とのつながり------など、非キリスト教的な、ケルト的要素が多く見られるので、アイルランド人作家がそれに注目したのも宜なるかな(笑)
★これはシェイクスピアと「家族」の寓話
また、今作でも描かれているように、シェイクスピアが11才で夭折した息子ハムネットの死をきっかけに『ハムレットの悲劇』を書いたこと、『間違いの喜劇』や『十二夜』には、双子の不思議な絆が描写されており、彼はきっと、妻や家族を思い遣る優しい父親だったのではないでしょうか。(もちろんこれは、ヲタクの仮説(妄想❓️)に過ぎないのですが 笑)

※父親の無理解と暴力に悩まされ続けた若き日のシェイクスピア。しかしアグネスと結婚後、初めて平穏な日常が訪れ----------。
今作のクライマックスは、ハムレットの死をきっかけに夫からすっかり心が離れてしまったアグネスが、生涯初めてシェイクスピアの戯曲『ハムレット』を鑑賞し、作品を通して、夫もまた最愛の息子の死に立ち合えなかったことで自らを責め続けていることを知り、心が罪の意識から解放されていくシーンでしょう。
★芸術が人を救う瞬間

ジェシー・バックリーが、毒の剣に刺されて次第に弱っていく舞台上のハムレットを守るように手を延ばし、それを見た観客が次々と同じように手を延ばすラスト。現実世界の苦しみ、悩み、悲しみを全て戯曲に昇華するシェイクスピアの偉大な才能と、彼の作品によって救われていく観客たちの魂が触れ合う瞬間。それは彼の生きたエリザベス朝時代から400年経った今でも、私たちが偉大な芸術作品から受ける、震えるような「生きる喜び」と同じものなのです。
★ポール・メスカル再発見

アカデミー主演女優賞を受賞したジェシー・バックリーはもちろん至高の演技を見せてくれますが、溢れる文才を持ちながら上手くそれを言葉に表すことの出来ない、無骨で、不器用で、優しいシェイクスピア像を、言葉にできない沈黙と視線の移ろい、抑制の効いた演技によって見事に造型したポール・メスカルに「ヲタク的助演男優賞」を贈呈したい❗️(笑)

※「初めて会った時から、2人の共演は絶対に上手くいくと思った」と語るジェシー・バックリー(左)とポール・メスカル(右)。ボールもアイルランド出身。2人ともケルトの激しい情念を裡に秘めた俳優さん。役柄ぴったりでしたね。
喪失は、生涯消えるものではない。
けれど、それはいつか、言葉となり、物語となり、誰かの魂に触れる。
『ハムネット』は、その静かな奇跡を描いた作品だった。
★今日の小ネタ…光と闇の美学〜撮影監督はウカシュ・ジャル
『関心領域』や『COLD WAR あの歌、2つの心』でアカデミー賞撮影賞にノミネートされたポーランド出身、映像の魔術師ウカシュ・ジャル。
本作では、16世紀の英国を背景に、室内における光と闇の繊細なコントラストが印象的です。ヲタク的には、前半、穏やかな家族の時間にはベラスケスのような“闇に滲む光”を感じ、後半、ハムネットが死へと連れ去られる瞬間には、カラヴァッジョのような“闇を切り裂く光”が立ち上がるように見えました。——それはまるで、光そのものが運命を語っているかのよう。