昔むかし、若かりし頃のヲタクが胸ときめかせた名画たち。
記憶の中に棲むそんな名画たちも、今見返すと再び新たな魅力をもって蘇る。
今日ご紹介するのは、イタリアの巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』(原題 The Damed)。ヲタクはこのDVDも持っていますが、なぜこの映画を今頃鑑賞し直したかと言うと-------。
先日ヲタクはドイツ・アルトマルク地方のとある大きな屋敷に生きた4人の少女たちのエピソードを積み重ねた特異な作品『落下音』(第78回カンヌ国際映画祭「審査員賞」受賞)を鑑賞したのですが、同作品では、少女に対する性的搾取が重要なテーマになっていました。特にヒロインの1人が、第二次世界大戦直後ソ連兵に暴行を受け、自ら死を選んだ場面は衝撃的でした。
一方で、『地獄に堕ちた勇者ども』は、同じ第二次世界大戦下のドイツでも、作品の舞台となるのは、ドイツ一の鉄鋼会社を営む財閥エッセンベック家。貴族の血を引く当主ヨアヒム・フォン・エッセンベック(アルブレヒト・シェーンハルス)が、家の益々の隆盛を図るために、当時軍事力を強め、虎視眈々と政権掌握を狙っていたヒットラーと手を組んだことで破滅の道を突き進む姿を描いた、2時間半に及ぶ映像の一大叙事詩です。
しかし、第二次世界大戦下のドイツを舞台に、時代の暗黒を描いたこれら2つの作品に共通して響き渡る不気味なテーマは、少女に対する性的搾取。
少女への性的搾取が、権力の堕落を可視化する
今回はこの視点から、ヴィスコンティ監督の代表作とも言えるこの長編作品を紐解いてみましょう。

エッセンベック一族の構成員は、ヒットラーの思想に嫌悪を感じながらも名家の存続のために「悪魔と手を結ぶ」ヨアヒム老、ナチスに抵抗する自由主義者のヘルベルト(ウンベルト・オルシーニ)、副社長でありナチス突撃隊(SA)幹部でもあるコンスタンティン(ラインハルト・コルデコフ)、ナチス親衛隊(SS)ヴォルフ・フォン・アッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)⋯と、登場人物がまるで当時のドイツ社会の縮図のようになっているわけですね。

※登場人物の中で唯一、当時のドイツの良心を代表するかのようなヘルベルト(左…ウンベルト・オルシーニ)とエリザベート(右…シャーロット・ランプリング)ですが⋯。
そこに、ヨアヒム長男の未亡人ゾフィー(イングリッド・チューリン)と愛人関係を結び、ヨアヒムを殺害してその跡取りとなるマルティン(ヘルムート・バーガー)を繰ろうとする、シェイクスピアのマクベスみたいな支配人フリードリッヒ(ダーク・ボガード)の野望が絡んで、愛欲・権勢欲塗れ、ドロドロの阿鼻叫喚。

※この相関図は、ブログ『悠々的日録』さんから引用させて頂きました。
このマルティン、当初は政治にも鉄鋼会社の経営にも興味のない女装癖のある小児愛者として登場するのですが、自らが凌辱したユダヤ人の少女が自死した事件をSSのアッシェンバッハに揉み消してもらった結果、ナチスの傀儡になり果てていきます。

マルティンの引き起こしたこの事件が、結果としてエッセンベック家が完璧に悪魔(ナチス)に魂を売り渡し、完全崩壊していくターニングポイントとなるのです。
なぜ権力は少女を標的にするのか?
無力で、声を奪われやすく、そして“未来”そのものだからです。
富の力でユダヤ人少女を搾取し、未来を奪った鬼畜である筈のマルティンが、今度はさらに強大な化け物であるナチスに搾取され、完璧に繰り人形と化すという壮大なる皮肉。

ラスト、ナチスに入党したマルティンが、ハーケンクロイツだらけになったエッセンベック家で、母親と愛人の結婚式を執り行い、果ては2人を毒殺して「ハイルヒットラー❗️」と叫ぶ場面は、今見返してもゾッとする、まさに地獄絵図そのものです。
★当時の時代背景
この長編の時代背景として描かれるのは、ドイツ史上の汚点とも呼ぶべき2つの事件--------1933年「国会議事堂放火事件」と、翌年1934年「長いナイフの夜(レーム事件)」です。
1933年2月27日、映画のオープニングシーン、エッセンベック男爵の誕生日パーティーのまさにその最中に、国会議事堂(ライヒスターク)炎上の報が入って大騒ぎになります。ヒトラー内閣はこの事件を「共産党による転覆計画」と断定。「国民と国家の防衛のための緊急大統領令」を発令し、基本的人権を停止して野党やメディアを弾圧しました。 しかしこれは実は、ナチスが当時最大の政敵であった共産党弾圧を狙って仕組んだワナで、作品中、国会炎上の報を聞いたSS幹部のアッシェンバッハ(ヘルムート・グリーム)が、密かにほくそ笑むシーンがそれを暗示して印象的です。

※同じ一族でありながら、激しく対立するSA(ナチス突撃隊)幹部コンスタンティン(左)とSS(ナチス親衛隊)幹部アッシェンバッハ(右)。
そして翌1934年、ドイツ中を震撼させた「長いナイフの夜」が起こります。ヒットラーは、1921年当時の盟友であったエルンスト・レームを、言わばナチスのテロ実行部隊SA(突撃隊)の最高指導者に任命、レームはヒットラーのために様々な「汚れ仕事」を引き受けるのですが、ヒットラーは次第に、SAよりもその後に設立されたSS(親衛隊)に重きを置くようになり、レームはそれに対して不満を募らせていきます。ヒットラーがレームをはじめとするナチス党内の不満分子を一挙に排除しようとしたのが1934年の「長いナイフの夜」。様々な場所でSSによる奇襲により命を落とした人の数は116名(亡命したドイツ人らの報告によると1000人以上とも言われ、いまだその数は不明のまま)。この恐るべき血の粛清により、ヒットラーのナチス党内における独裁体制が完全に確立されたのです。

※作品中に描かれる「長いナイフの夜」。登場人物の1人である突撃隊幹部コンスタンティンもこの夜命を落とします。
★ヴィスコンティ監督とヘルムート・バーガー
この作品で衝撃のメジャーデビューを飾ったヘルムート・バーガー(当時25才)は、当時既にヴィスコンティ監督の愛人でした。監督との関係はその後監督の死まで続いたと言いますが、『地獄に堕ちた勇者ども』では権力者による少女の性搾取を演じた彼が、実生活では映画界に当時蔓延っていた搾取構造に組み込まれていた-------というのは、ヲタク的にはかなり衝撃的な話でしたね。虚構と現実が、言わば地続きであったことへの恐怖を感じました。

※作品中、ヘルムートの初登場は、マルレーネ・ディートリッヒを真似て「私の欲しいのはホンモノの男」と歌い踊るシーン。ドイツ人のディートリッヒはヒットラーのお気に入りの女優でしたがそれを嫌い、アメリカに亡命してハリウッドで活躍しました。
この作品は、あの三島由紀夫が、映画評論雑誌「映画藝術」1970年4月号で
<久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう
と絶賛した作品です。彼が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決(1970年11月25日)するわずか7ヶ月前でした。
ヴィスコンティがこの作品に付した副題は、「神々の黄昏」。
それは、権力に手を伸ばした人間が、自らの内にある倫理や理性を一つずつ手放し、やがて取り返しのつかない地点まで堕ちていく——その過程そのものを指しています。
そしてこの作品が静かに、しかし執拗に描き続けるのは、その“堕落の始まり”が、常に最も弱い存在への暴力として現れるという事実です。
少女への性的搾取は単なる個人の逸脱ではなく、権力が人間性を侵食し始めたことを告げる、危険な兆候なのです。そしてそれは、ナチスが滅亡して80年を経た今なお、世界のどこかで繰り返されている。
『地獄に堕ちた勇者ども』が描いたのは、ナチスという歴史の暗部を切り取っただけではない。
むしろそれは、時代や国を超えて繰り返される、人間という存在そのものの“黄昏”だったのではないでしょうか。
——だからこそ私は、この、醜悪な権力争いの果てに滅びの美を見る“黄昏”の魔力に、抗えないのかもしれません。
★今日の小ネタ⋯ワーグナー『神々の黄昏』
ヴィスコンティ監督が本作品の副題とした『神々の黄昏』は、リヒャルト・ワーグナーの楽劇※『ニーベルングの指環』の最終章の題名と全く同じです。
※全世界の支配する魔力を持つ「ニーベルングの指輪」を巡り、神、英雄、地上の人間が醜悪な争いを繰り広げた果てに世界の終末(ラグナロク)を迎えますが、全能の神ヴォータンの娘である戦乙女のブリュンヒルデが自らを炎で焼き尽くすことにより指環の呪いを解き、神々の世界(つまり権力の支配構造)は終わる-------というストーリー。
このヒロイン・ブリュンヒルデの人生がヲタク的には可哀想すぎて^^;父である全能の神ヴォータン(絶対的権力者)の言いつけを守らなかったからと言って炎の山に閉じ込められ、それを救ってくれた英雄ジークフリート(人間)と掟を破って愛し合うもジークフリートは奸計にかかって殺害され、ブリュンヒルデは愛する人の火葬の炎に指環と共に飛び込む-------というね。
ワーグナーの楽劇の中では、ブリュンヒルデをキリストに擬えて「ブリュンヒルデの自己犠牲=愛による世界の救済」と呼ばれてるわけだけど、ヲタク的にはどうしても、家父長である絶対的権力者ヴォータンに搾取され続けた、乙女(=少女)ブリュンヒルデの暗黒の悲劇にしか思えないのです。