オタクの迷宮~映画と舞台と音楽と Chaos-α

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美しき陰翳の魔術~映画『スパイの妻』

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 桜木町駅前のブルグ13にて、『スパイの妻』(黒沢清監督)鑑賞。NHKの8K放送で6月に放映されたドラマの劇場版。我が家のTVでは8Kは受信できず、口惜しい思いをしたものですが、今日見終わって、この作品のスケールの大きさを考えれば、やはり、映画館のスクリーンで見ることができて良かった、と思った次第。

 

  舞台は神戸、時は1940年、日独伊3国同盟が結ばれ思想の自由が次第に奪われ、戦争の暗雲が日本全土を覆い始めた不穏な時期から、1945年の終戦まで。神戸で生糸を輸出する商社を経営する有能で優しい夫・優作(高橋一生)の庇護のもと、何不自由のない幸せな生活を送っていたはずの妻・聡子(蒼井優)。戦争が起きなかったら、彼女の幸せはずっと続いていたことでしょう。ところが、商機を求めて夫が当時の満州国に外遊したことをきっかけに、夫婦の運命の歯車は大きく狂い始めます。満州から帰国してからの夫は、すっかり人が変わってしまった。そして自分には黙っているが、秘密裡に美しい一人の女性を満州から連れ帰ったようだ。夫が抱える大きな秘密。妻は疑心暗鬼に苛まれ始め、それはのちの悲劇の幕開けとなった…。

 

 戦争は、人が大事にしていたものを全て変えてしまう。いや、変わったのではないのかもしれない。元々夫婦の間にあった見えない溝が、亀裂が、人生や社会に対する考え方の決定的な違いが、戦争という大きな熱風によって、あぶり出されただけかもしれない。夫ばかりでなく、純情で朴訥な少年であったはずの幼なじみ・津森(東出昌大)さえも、憲兵分隊長となった途端に、思想犯を平然と拷問するような冷徹さを露わにし始める…。

 

  夫の秘密を知り疑心暗鬼になりながらも、「愛」という名のもとに夫にすがり、夫をじわじわと追い詰めていく蒼井優の鬼気迫る感じ、外見がいかにも天真爛漫で少女のような風情なんでよけい怖い~😅また相対する夫、高橋一生の、一見優しそうに見えて目が笑ってない、時折ひんやりした何かを感じさせる演技が役にぴったりで、東出昌大の、忠国と大義に取り憑かれた眼差し、無言の威圧感を感じさせる軍人の佇まいもしごくリアルです。この三人の息の合った演技のアンサンブルはお見事❗

 

  テーマは重苦しく、結末は皮肉で苦い後味ですが、それに反して、スクリーンを彩る映像のそれはそれは美しいこと。ああ、この光と翳の美しさは、その昔谷崎潤一郎が随筆「陰翳礼讚」の中で讃えた美そのものだ…と感動しました。谷崎は、光の届かない薄暗がりにこそ美は存在するとし、幼い頃、暗い書院や床の間の闇に言い知れぬ畏れと寒気を覚えたと語っていますが、今ではすっかり廃れてしまった日本古来の陰翳の美。中国ヌーベルバーグの映像作家たちの極彩色の光と影とも違う、ブライアン・デ・パルマのそれともまた違う奥ゆかしい美しさを、黒沢監督は見事にスクリーンに蘇らせてくれた❗

 

  この作品の大きな謎、ミステリーは、夫の心そのもの。夫は何を目論んでいるのか❓夫は本当にスパイであり売国奴なのか❓そして妻である私を今でも変わらず愛してくれているのか❓私たち観客は、蒼井優とともにもどかしさでジリジリしながら、夫の表情からその真意を必死に読み解こうとするのですが、悲しいかな、肝心な場面で夫の表情は逆光や闇に埋没してはっきりとは判別できません。監督の心憎い演出によって、私たちはますますミステリアスな迷路に踏み込んでいくのです。(夫・優作に心酔する甥っ子が聡子に向かって、「あなたは今まで叔父さんの何を見てきたんです?何も見てはいない❗」と、執拗に繰り返しますが…)

 

 「 夫婦なんだから秘密は持たないで。私に全て話して」と迫る妻に、夫の顔が光と翳の真っ二つに割れる場面。「僕は君に嘘をつくようにはできていない。だから何も聞いてくれるな」という夫。幼い谷崎が日本家屋の暗闇に畏れと寒気を覚えたという、全く同じ感覚を、その時ヲタクは感じたのです。人間の持つ二面性、心の奥底に潜む光と闇。

 

 それは、 映画史に残る名場面の一つと言っても、過言ではありますまい。