※まるで三船敏郎みたいな壮年期の東郷。ヲタクは制服フェチなんで、この写真1枚で沼オチです(笑)
はいっ、今日も引き続き『歴史上のイケメン列伝⑥』日本人編で、東郷平八郎についてひとくさり語っちゃいたいと思います。前回が平安朝の色事師……いやもとい、貴公子の在原業平でしたから、次が東郷平八郎だなんて、いきなり極左から極右にくら替えしたようなもん(笑)
ヲタクの父親は大日本帝国海軍兵学校の学生だった時に江田島で終戦を迎え、戦後は理系の大学に入り直して、海上保安庁から海上自衛隊(創設時は警察予備隊という名称だったそう)入隊という、何と言うか、いかにもな経歴(笑)その父がまあ、神さまみたいに崇め奉っていたのが、帝国海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献した東郷平八郎でした。特に日露戦争においては、連合艦隊を率い、日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇っていたロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃破、一躍極東の小国・日本の名を世界に知ろしめたわけです。※東郷ターンの逸話なんて、酔っ払った父から何度聞かされたかわかりません(^.^;
※東郷ターンは、対バルチック戦で戦艦三笠の艦長だった東郷平八郎がとった戦法のことで、丁字またはT字戦法とも呼ばれています。「敵艦の進行方向を遮り、一斉砲撃する」といった戦法です。一般的には後方と左右にしか砲撃できず、前進していれば左右や後方へ旋回には時間がかかるという戦艦の弱点を利用したものでしたが、敵艦の正面に出れば集中砲撃を浴びる可能性があるため、実行不可能と言われていました。一流の戦略家であった東郷は、その「危険な賭け」をモノにしたわけです。
※壮年期の渋オジとは一転して、青年時代の東郷は、白皙細面の優しげな美青年です。「一粒で二度オイシイ」ってやつ❓(←バカ(^.^;)
しかし彼の神技的戦略により日清・日露戦争に勝利、第1次世界大戦を経てたちまちのうちに日本が「世界の五大国の一」に上りつめたことは、欧米列国の耳目を集め、それどころか脅威の対象となりました。欧米は日本に対して軍艦トン数の極めて不平等な制限を課し、※ロンドン軍縮会議(1929年11月)で日本は不平等の撤廃を求めましたが、特に米国の強硬な反対に遭って決裂。そこから日本は、まるで何かに導かれるように太平洋戦争に向かって突き進んでいくわけです。皮肉な言い方をすれば、東郷の八面六臂の大活躍が、太平洋戦争の遠因……と言えなくもありません。彼自身はロンドン軍縮会議の5年後、1934年に逝去していますから、焼け野原の東京を見ずに済んだわけですが……。しかしながら、陸奥、武蔵、日向、伊勢、大和……と太平洋戦争末期、数々の日本の戦艦が沈没したのを彼が天空のどこかで見ていたとすれば、その無念はいかばかりだったでしょう。
※海軍少佐時代の山本五十六が随行員として参加。米国留学経験のある彼は、この時期には米英と軍事衝突は避けたいと模索していましたが…。
※戦艦三笠。海上自衛隊勤務だった父は国内を転々としました。ヲタクが小学生の頃は横須賀勤務で、父の休みの日は三笠に連れて行ってもらい、甲板で遊んでました。1度、特別に後部マストに上らせてもらった記憶があるんだけど…。あれはヲタクの夢❓妄想❓……さだかではありません(笑)
東郷平八郎は典型的な明治の人間。女性の立場から言えば、明治時代って、日本史上男尊女卑の極みみたいな時代で、ヲタク的にはひとくさりいちゃもんをつけたくなる時代だけど(笑)しかし一方では、シビレるくらい魅力的なオトコのオンパレード😍……この心理的矛盾はいったい、どう説明したらいいものか(笑)